井上陽子さんの『第3の時間』を読みました。デンマークに暮らす著者が、「短時間労働なのになぜ豊かなのか」という素朴な問いから書き起こした本です。働き方や北欧社会の分析が中心なのですが、読み進めるうちに、著者が言うように、この本は、時短のためのハウツー本ではなく、自分の価値をどこに置くかという視点で自らの生き方を見直す契機となる本なのだと気づかされました。
もくじ
一日が「仕事」と「回復」だけでできていませんか
著者は、日本にいた頃の自分の一日をこう振り返ります。平日も休日も、「仕事、および仕事に役立ちそうなこと」と、「仕事からの回復」の二つの時間で成り立っていた、と。学びも人脈づくりも、結局は仕事のためのもの。睡眠も気分転換も、また働くための準備。
耳が痛い方も多いのではないでしょうか。私自身、外来と書類と勉強会で予定が埋まっていくとき、残った時間を「回復」と呼んでいることに気づきます。回復とは次にまた消耗するための準備ですから、これは結局、仕事の一部なのですよね。

「ワーキズム」という言葉
耳が痛い方も多いのではないでしょうか。私自身、外来と書類と勉強会で予定が埋まっていくとき、残った時間を「回復」と呼んでいることに気づきます。回復とは次にまた消耗するための準備ですから、これは結局、仕事の一部なのですよね。
本書に出てくる印象的な言葉が「ワーキズム(Workism=仕事主義)」です。仕事に給料だけでなく、生きる意味や自己実現までを求め、仕事を自分のアイデンティティそのものとして扱う考え方を指します。
何が問題なのか。著者は、仕事での失敗のダメージが大きくなりすぎたり、キャリアが揺らいだときに、自分自身の価値まで揺らいで感じられてしまうことだと指摘します。
もう一つが「パフォーマンス文化」——個人の価値を「どれだけできたか」で判断する考え方です。そんな文化のなかでは、休息は怠けであり、キャリアの停滞は能力の停滞と受け取られる。何かを学んでも試験に受からなければ、その時間まで無駄だったかのように感じてしまう。いわゆるオール・オア・ナッシングの思考(白か黒かで割り切ってしまう考え方)です。
診察室でも、うつ状態から回復しかけた方が「何もしていない自分に耐えられない」とおっしゃることがあります。あれは怠けへの罪悪感というより、「成果を出していない自分には価値がない」という信念が、休むことすら許してくれないのだと思うのです。
「君がなぜ素晴らしいか、わかる?」
終盤に、忘れがたい場面があります。義父が亡くなる少し前、著者の夫が唐突にこう尋ねるのです。「君がなぜ素晴らしいか、わかる?」
答えは、「君は、いい心を持っているからだよ」でした。
何かができること、何かの役に立っていること、そういうことは関係ない。いるだけで、存在するだけで、無条件の価値がある——義父が伝えたかったのはそういうことだったのだろう、と著者は書いています。パフォーマンスではかられない、安心できる場所。役に立とうが立つまいが、無条件で受け入れられる場所。自分が求めていたのはそういうものだった、と。
自分に語ってきた物語を、書き換える
著者が自分に語り続けてきた物語は、「他人の期待に応えられる自分だからこそ、価値がある」というものでした。
私たちも、それぞれの物語を持っています。もう手遅れだとか、この道を外れたら終わりだとか。本書で引かれる心理セラピストの比喩を借りるなら、それは檻(おり)のようなもので、必死に柵を揺さぶってみるけれど、よく見ればその左右には広い空間が開けている。迂回して、歩いて出ていくこともできるのです。
私たちも、それぞれの物語を持っています。もう手遅れだとか、この道を外れたら終わりだとか。本書で引かれる心理セラピストの比喩を借りるなら、それは檻(おり)のようなもので、必死に柵を揺さぶってみるけれど、よく見ればその左右には広い空間が開けている。迂回して、歩いて出ていくこともできるのです。
「やりたいことなの? それとも、やらなきゃいけないことなの?」
本書が投げかけるこの問いは、そのまま読者への問いでもあります。デンマークの制度をそのまま日本に持ち込むことはできませんし、著者自身もそれは自覚しています。それでも、自分の一日が何でできているのかを一度立ち止まって眺めてみることは、誰にでもできるのではないでしょうか。
あなたの価値は、今日の成果とは無関係にそこにある。そう思えたとき、時間の使い方は少し変わるのかもしれません。

『第3の時間』井上陽子 著(単行本) 『第3の時間』井上陽子著(Kindle版)