管理者プロフィール

昭和??年12月生まれ(還暦をすぎております)

西日本某所で、いわゆる貧困家庭の第二子として出生。

当時住んでいた長屋は風呂もなく、母は手押しポンプの井戸から水を汲んで竈(かまど)でご飯を炊き(今では贅沢!)、洗濯はタライと洗濯板で手洗いでした。

もっとも、当時、自宅に洗濯機や風呂のある家庭の方が少なく、どこの家庭も洗面器に石鹸とタオルを入れて銭湯通い。たま~に湯あがりに「コーヒー牛乳」を飲めると本当に幸せ!という感じでした。因みに入浴料は10円の時期が長かった記憶しています。

母は、内職をしていました。靴下の刺繍(ししゅう)の裏に縫い付けられた油紙みたいなものを剥いでいく内職や、割りばしの袋入れを手伝ったことを覚えています。退屈でした…

しかし、母は何も愚痴めいたことは言わず、手伝う我が子を労ってくれました。我慢強く根性のある、しかし頑固で優しい母でした(まだ存命中)。

やがて近所のパン屋さん(Google Earthで見てみると今はもう転居されているようです)で勤務させてもらうようになり、月給1万5千円を得ることができるようになりました。

肺結核で長期に入院していた父が小生小5のときに死亡するまでは、休業補償で、死亡後は恩給を貰っていたので生活ができていたようです。

私は恥ずかしがり屋でした。でも、前向きで夢多き楽しい少年時代を過ごしました。悩みはありませんでした。

地元の公立小学校を卒業後、東京に職を求めた母と東京へ。公立の中学校に入学したものの、奈良で正社員としての職を得た母とともに奈良に戻ることになります。

半年間の短い東京生活でした。東京の仲間は、関西から転校してきた私を差別をすることもなく、紳士的でネアカな奴ばかりでした。

奈良県の公立中学を卒業後、某高等専門学校に進学。しかし、2年で中退。

けして拗ねた(すねた)訳ではありません。高専の先輩から、3年生まで在学していると大学には受からないと言われたので中退したのでした。

当時の「大検」に合格し、某国立大学の獣医学科に進学。寮生活を始めることになります。

たまたま寮の同室の同期生が、社会人を経験してのち医師を志した医学部生であり、感化されて医師を志すことになったのです。

父は肺結核、兄も父から感染した結核性脳脊髄膜炎で言葉も話せず、歩くことも自分でご飯を食べることもできない状態を数十年過ごして死亡しました。このことも、医師を志す要因となったのかもしれません。

結局、獣医学科を2年間で中退し大阪の予備校へ通うことになります。実はエリートの別分校や医進クラスのあるもう一つの別分校に進みたかったのですが、合格しませんでした。

予備校の初回面接で、指導担当教官から「お前が医学部に通るなら、俺は大阪中を逆立ちして歩いてやる!阪大の基礎工なら確実に通るから医学部はやめなさい!」とまで言われて頭にきたのはいまも忘れられない思い出です。

第一回目の模試では、得意の物理(だけ)は偏差値86!と断トツだったのは、自分でもびっくりしました。しかし、貧困母子家庭の私には受験のチャンスは1回のみ。しかも国立しか進学の可能性がありません。一所懸命勉強しました。

勉強もしたが高校に行ってなかった分、予備校は私の高3がわりという意味があったようです。友達との交友。淡い恋愛ごっこ。飲みにも遊びにもよく行きました(今考えれば未成年だったですね…)。

大抵は男子2-3人と女子2-3人の固定メンバー。よくたむろした駅前近くのカフェ「アラスカ」のアイスコーヒーは絶品でした。我が彼女は、ロンピ(ロングピースという強いタバコ)をくゆらせ、ブレンドコーヒーを優美に啜っていました。その姿が、たまらなく魅力的でした。

陰のある淋しがり屋。しかし、自分というものをしっかり持っている戦友でした。某教育大学に進学しましたが、何科の先生になったのでしょうか…

いよいよ私も受験となります。医学部の受験日初日、受験地は雪が水平に降っていました。とんでもない所を選んでしまった。ここは日本のチベットか?とひるんでしまったことを今も強烈に覚えています。ともあれ無事合格することができました。

学生生活は、新奇性に富み波瀾万丈、来てよかったと思いました。体育会系のクラブを創設したり、当時まだ行われていたヤマハのポプコンにエントリーしていた先輩を手伝い照明係をしたり、同級生の口車に乗せられてディンギーをはじめ大会に参加したり、スキーにも目覚めました。

近くの海でウニやサザエを獲って猟師に竹竿で殴られそうになったり、大腿骨がバラバラになって5か月弱自学の附属病院に入院したり、とんでもない社会人の友人と知り合いになって知らない世界を垣間見ることもできました。退屈するということがありませんでした。甘い恋も切ない片思いも経験しました。大らかにすごせた大学生活だったと思っています。

卒業試験を1科目も落とさなかったことを「大学の七不思議」と言われて頭にきたのは、今となっては微笑ましい思い出です。立腹しながらも勉強して国試も一発合格。整形外科からは入局するようにとお誘いがありましたが、総合的研修を望み学外の病院で研修することを決意しました。

研修先の大阪の総合病院では、「知識はなくて分からなくても 、まず患者さんの所に行って状態を把握することが大切である」という態度を叩き込まれました。

次に研修先となった大学病院では、エビデンス(証拠)がどうなっているのか、勉強勉強また勉強、医師に勉強の終わりがないことを思い知らされました。

さらに次の研修病院では、知らないことを知らないと認めることを恥ずかしいと思わず、「見せてみて、教えてみせて、させてみて、そして誉めなければ人は育たない」という方針で指導してもらいました。後から知ったのですが、山本五十六の言葉だったようですね。

そして、今は統廃合されて廃院となった特殊な公立病院では、院内の学校に通いながら闘病する子供たちから無限のエネルギーを貰い、運命の善意を信じる子どもたちの無邪気さに感銘を受けました。

次に赴任した私立病院では、私の精神科医としての原体験をすることになります。

食べ物に毒が入っていると言って缶詰しか食べない老女が入院してきたのです。

整形外科での入院であったのですが、妄想が激しく整形外科病棟では到底対処ができません。

病棟医長が精神科病院に連絡を取り、精神科医が往診に来てくれました。妄想を否定することも肯定することもなく、しかし、妄想の中での辛さに共感して、柔らかく、しかし毅然として対話する精神科医に、何か心惹かれるものを感じたのです。

直ぐに精神科医になろうと思ったわけではありません。しかし、この体験が精神科に転科した動因の1つであったことは間違いないでしょう。

まだ大学の整形外科医局に所属していたころ、「こころの悩みを診る悩み」という本と、ガンダーソンの「境界パーソナリティ障害―その臨床病理と治療」という本に刺激を受け精神科への転科を決意します。

生物学的精神医学はしたくはありませんでした。大学で生物学的研究に従事していたのですが電子顕微鏡用の組織切片を切るのが苦手で、生物学的自体は好きなのでが、その際の手技に辟易として、生物学的研究を全く行っておらず、かつ、「こころの悩みを診る悩み」の共著者が所属していた私立大学精神科大学院に進学することにしました。

ただ、本の共著者は既に開業して大学にはおられなかったことは残念無念。反面、「神」と言われる先生が主任教授として君臨しておられ、それは幸運であったと今は思っています。私の臨床スタイルを形成するうえでの手本であり反面教師ともなったからです。

大学院を修了して一般病院に勤務し、自らの信念に従った医療を行うには、医療機関の方針を決定できる立場にならなければ、妥協妥協の連続であることを痛感しました。私立の大きな病院を機能させていくには、カリスマ性が必須。ただし、「カリスマ性=指導力+横暴さ」であると思えてなりませんでした。

横暴さは「言葉の激しさ」ではないようです。このとき開業を決意しました。

経済的に余裕のない身にとって開業はそうとう困難でした。そのため。常勤医として一般病院に勤務しつつ、勤務を終えて夜間のみのクリニックからはじめることにしました。

当時の勤務していた私立病院の理事長の寛大さと忍耐力には、いくら感謝しても足りないと思っています。

自らの生活を犠牲にしてまで協力してくれた妻には、本当に感謝しています。

自分のクリニックを開業し、現在は他院でのアルバイトをすることもなく自分の信念に沿って、実用的心理療法とコーチングテックニックを織り交ぜた診療を行っています。

自らも成長しつつ、患者さんに貢献のできる診療を提供していると自負しています。

しかし、社会に出ていくことができない方々を社会参加できるようにするすることは本当に難しいと感じています。ですから社会に旅立つことができなくても、なんとか生きていくためにネット世界で人と接することなく収入をえる方法を模索していこうと考え、まず自分がどこまでネット世界で収入を得ることができるかを検証することにしました。

このサイトで、徐々にその検証実験を行いたいと思っているのです。日々学んだことを備忘録的に書いていることも多いと思います。3年をめどに、収入が得られるサイトを構築できればいいのですが…